昭和44年05月31日 朝の御理解
御理解 御神訓一つ信心の心得
「まめなとも信心の油断をすな。」
例えば皆さんが、こうして朝のお参りでもさして頂きよるという事は、よっぽど神様に心を寄せておるから出来るのですけれども、毎日お参りをしておるから信心の油断をしておらんという事ではない。朝晩神様を拝みよるからという事でもないと思うのです。何でもおなじ事で油断大敵とね、勝って兜の緒を締めよという様な言葉があります様に、やはり油断大敵であります。ですからそれにはどうしてもそのう、おかげを頂いておれば頂いておる程、いわば勝って兜の緒を締めていくというような信心。
ところがおかげを段々頂きますと、おかげを頂けば頂く程、信心の方が綿密になってこなければならんのに、やはり疎かになりますですねぇ。ですからいよいよおかげを受けて油断をせんだけの信心が出来るようになることを、神様は求めておられると思うですね私共に。おかげはやりたいのですね神様としては。けれどもやったおかげで、そのう又大きなおかげ落としの元になるような事であっては、おかげがおかげになりませんから。おかげはやりたい、いっぱしのおかげはやりたい。
ですけれどもそのおかげを頂いた為に、大きなおかげを落とす様な取り返しのつかんような事になったんでは、それこそ親子共助からない事になるからね、神も氏子も助からん事になるから私共がおかげを受けてね、時におかげを受けていわば勝って兜の緒を締めていくだけの信心という様な。おかげを頂いてあれこれと楽になります。ついついお参りが億劫になる。おかげを受けますと慢心が出る。自分ももう大したもんだなと。神様のおかげといいながら心の底には、はぁ自分なもう大分出来たんだなとね慢心が出る。
どんなにおかげを受けてもおかげを受けても、そのおかげをただ神様の御都合として頂く。おかげを頂いておるけども、こりゃ神様に深ぁい御神意あっての事。自分が信心出来ておるからじゃないんだと、いよいよ信心を引き締めていく。そういう信心が私はあのう出来てくる。又それが確かめられた時に、そこから頂けるのが本当のおかげだとこう思うですね。神様はおかげを限りなく下さろうと思い、又しておられるのです。私共も又おかげを頂きたい。
けれどもならおかげを下さりたい、おかげを頂きたいというものが、ここに二つあるんですから、おかげを頂けん筈はない訳ですけれど、その頂いたおかげで怪我をする。頂いたおかげで取り返しのつかないような事になるような事になっては、親子とも神様も氏子も立ちゆかん事になるから、そこを神様は求めそこを私共の上に確かめて下さる。それをおためしとこう言うんです。どういう風にためしすかされましても、信心の方にくるいがないと、そこから私は現れてくるおかげ。
「まめなとも信心になれ」とこう申します。毎日お参りをしておるから油断をしとらんといったような簡単な事じゃない事が分かりますですね。「まめなとも信心の油断をすな」と夕べ夜の御祈念前の時間に、なんとか昨日金曜日でしたかね。金曜に何とか名画何とかがありょりますね。なんかドイツの映画でした。私はもうなかしまいごろ見たんですけれども、ラストシーンでそのうとてもいい兵隊さんがですね、嫁さんをもらって結婚間もなく又前線に出ます。
そして敵のまぁ捕虜ですかね捕虜を三名それの責任持たされます。ところが突然又そのう前進していかなければならないというので、その敵のその捕虜を殺して行かなきゃならん。それで一人の兵隊が「おれが殺して行くから」と言うのですけども、「それは自分の責任になっとるから殺させん」と言うて、味方同志でそのう殺す殺さないでもめて、そして相手を殺してまで三人をかばおうとする。そして自分は発って行くのに際してです、家内から来たばかりの手紙を読んでね。
「子供が出来ました」とあなたが無事に凱旋された時の楽しみを一杯書いてある、その手紙を読みながらそのひとときを楽しんでおる時に、解放した三人のいわば牢に入れてあるそれが三人、その出してもらったその人のおかげで出して貰ったのがですね、その兵隊をあの殺すんですよ。それがあのうまぁラストシーンでしたけれどね。もう本当に目も当てられないですねぇ。自分はいっぱしの親切いっぱしの善いこと三人の命を助けたんですけれども、助けた奴から殺されたというようなまぁ場面の映画でしたがねぇ。
信心しておるから安心ということはない。毎日参りよるからそこに油断が出来た。いくら例えばこちらが親切にしてやって、自分達はもう前線にでなければならんから、手足まといになるから、その捕虜を殺して行こうというのを殺さずに助けてやった。出してやったもうおまえ達は勝手にしろと言うて、門の扉を開いてやった。ところが三人がその助けた兵隊を殺してしまうといったような。まあぁ普通で言うならまぁそれこそその兵隊の後から拝んで、おかげで三人の命が助かりましたと言うて。
そこで別れ様な事にならなきゃならんのに、いわゆる食うか食われるかという中にあっての事ですから戦争と言うのは。助けられた者助けて貰うたその人までも殺してしまう。そりゃやはり戦争というその事を忘れて、ただ普通の人情で親切にしたんですねきっと。いわゆる勝って兜の緒を締めなかった訳ですよ。もう信心しよるから大丈夫という事はないって。毎日お参りしとるからとそれは余りにもの事であってね、信心の油断というのはそんなもんじゃない。どこの隙からめぐりが私共を狙っているのか分からない。
そこで今私が申しましたね。自分ももう大分出来たと大分わかったと。いう様な事やらですね、そういう事では本当のおかげになって来ないから、おかげは頂けば頂く程ね。こりゃもう得てしてですね、そういう油断が出来るもんです。古川先生のお話しの中にもありましたように、困ったなかでおかげを頂いて大変忙しくなってきた。商売が繁盛して来た。はりゃ毎日一生懸命お参りしとったものが、段々忙しゅうなっておかげを頂いてきたら、とんとお参りもせんごとなってきた。
珍しくお参りをして来ていう事が「この頃はおかげ頂きましてから忙しゅうて忙しゅうて、お参りする暇もございません。」そしたら四神様が仰っておられますね。「そりゃあ気の毒じゃなあ」と仰った。「忙しゅうない時にゃ一生懸命、難儀なら一生懸命お参りが出来たけれども、段々おかげを頂いてきたら、お参りも出来んごとなった」と言うのである。それに対して「そりゃあ気の毒じゃなぁ」とこう仰った。得てしてそうです。少しばかり頂きますともうそれにあぐらをかく。
そしていうなら「うだごつ」どんいうごつなりました。はぁ毎日毎日参らんでんちゃんと心の中に頂いとるから。何事にも信心になれよと仰るから、ちゃんと信心になりよるから。そういうところに油断がある。そして段々繁盛して参りますとです。もう自分のやり方が良いからの様になってしまう。おかしな事ですね。けれどもこれが結局人間のいわゆる弱点なんですよ。人間って得てしてそんなもんなんです。そこで神様はそこんところを確かめ確かめして下さってですよ。繰り返し繰り返しね、試した上にも試して。
もう大丈夫というところから、現れてくるおかげ。神様はそういうおかげをやりとうてたまらんという神様。こっちも実はおかげ頂きとうしてたまらんという私共ね。それにはどうしても私共がですね。どんなにおかげ頂いても、いわゆるまめなとも信心の油断をせんで済むだけの信心を、しっかり身につけておかなければならないという事。それはね通り一辺の事は分かりますから。例えばここの難儀を助けてさえ頂きゃ、おかげを頂きゃ決して神様のご恩など忘れるようなこたぁありませんって。
これは実感として言いもし思いもしてるんですよ。ところがおかげを受けますとです、その思いが段々薄うなってきて、そして神様のおかげがおかげでないようになってくるんですね。ですからここんところをひとつ、しっかり信心の稽古をさせて頂くという、そこんところをね、どういう時があってもそれこそ、水も漏らさんような信心とでも申しましょうか、そういう信心を本気で身につけておかなければいけないという事。どういう時でも慢心もしないね。
言うならまぁ例えばね、ならひとつお参りひとつでもそうです。苦しいからこのことをお願いせなならんから、一生懸命修行のつもりでお参りをしておるというものがです、段々嬉しい楽しいものになって、いわば神様へ対するところの思いというものが、いよいよ募って、その信心が初めの間はしるろしかった信心が、修行であった信心が、いわゆる有り難い有り難いという、お礼の信心に変わって来るというような、おかげを身につけなければいけんのです。
こんな難儀な問題がなかったら、こげん毎日参らんでいいけれども、こげん朝早うから起きらんでいいけれどもとね、と一生懸命早起きの稽古もさしてもらい、修行もさしてもろうてです。いっとるうちにその朝なら朝起きがです、いよいよ有り難いものに楽しいものになってくれば、もういわばある意味合いに於てしめたものである。朝寝どんしちゃおられない勿体のうして。というようなものが本当に身についてこなければ。そこで私は今日「まめなとも信心の油断をすな」と仰せられますから。
今私が申しましたような事をですね。そういう事がどういう場合でももう油断せんで済む。そこに神様のいわば試しすかしが有りますから、お試しお試しに落第せんで済む、おかげを頂かしてもらうという事だなと、私は思わせて頂いてそれだけ聞いて頂いたんですけれども、大体ならそういうそれはどういうような事に、例えば焦点を置いての信心をさせて頂いたら良いかと、いよいよ油断をせんで済むおかげを頂く為には、どういうような信心をさせてもろうたらよいかという事を、御理解によって頂きましたら。
御理解五十三節を頂きました。「まめなとも信心の油断をすな」という事をです。御理解によって頂きますと、御理解第五十三節のところを開いて御覧なさい。「信心すれば眼に見えるおかげより眼に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。」ね。とここのところを頂くのです。信心をしておれば眼に見えるおかげ。それが大きな眼に見えるおかげ、その時に油断をしちゃならん。慢心をしちゃならん。自分の信心が出来たから、眼に見えるおかげを頂いたように思う。
と同時にです眼に見えないおかげ。眼に見えないおかげをいよいよ深求していこうとする姿勢。知ったおかげより知らぬ方のおかげをです、いよいよ深く広く分からして頂こうとする信心の姿勢。福岡の吉木先生からお説教によく頂いておったお話しの中に、福岡に姪浜という所がございますね。姪浜というたいへん大きな教会です。福岡のお弟子さんですね。もうそれこそもう大変な修行をされたらしいんですね。修行をそのうさせられなさったですね。もう本当に大変な修行だったらしいですが。おかげを受けられまして人がどんどん助かるようになった。
ある御大祭の時にですね米がそれこそ何十俵です、御神前に積み上げられる程しの、御比礼を頂かれた。御大祭が済んで皆が帰ってしもうた後に、今日の御大祭の事についてのお礼を申し上げておられた。そして先生の心の中にその感じられたもの「随分長く修行さしてもらい苦労させて頂いたけれども、自分もおかげ頂いたもんだなぁと。御大祭に何十俵という米を積み上げる程しのおかげを頂いた」と思われた。思われた途端にです初代の吉木栄蔵先生のお声で「唐津に行くぞぉ」というお声を頂かれた。
これからは唐津に行くぞぉ仰った。「しまったぁ」と思ったけれどももう遅かったというお話しなんです。はぁおかげを頂いてこれ程しのおかげを頂いてと、本当に信心も出来んのにとまぁ言葉ではそういうおかげを頂いて有り難いとこう、お礼を言うておられる。けれどもまぁ随分長い間修行もさして貰ったけれども、まぁ自分もおかげ頂いたもんじゃあるなぁ、御大祭にこれだけのそのう、まぁ何十俵と米を積み上げる程しのおかげを頂いたと、思われた瞬間にですね「唐津に行くぞぉ」というお声であった。
いかにそのう姪浜の出社にです、初代の吉木先生の霊の働きがあっておった。それをそのう先生の心の中にちょっとした隙間風がねあった訳です。自分ももう大した信心が出来た。これだけの事が出来る様になったと。それから御比礼が落ち出したと同時にですね、今の唐津の教会があぁいう隆々たる、ご比礼が輝き出したというお話しでございます。本当に油断も隙も出来ませんですね。ですからもう本当に例えて言うとならここで私がですね、まぁ私共も他の教会でまぁだ見た事も聞いた事もなかったですけども。
あのお届け帳が霊神様の前に、お供えされるのはここだけでしようね。とにかくこういう風におかげを頂いておる、合楽がおかげを受けておるのはね。これは神様の御都合だと私しゃ思うとるです。それと同時にです、やはり先覚初代の先生あたりの御信心のおかげである、お取次ぎのおかげであると思うておるから、私はもう霊神様にお届けをなさしてもらい、お礼を申させてもらわなければまぁおられんのが、あぁいう風な形になって現れておる訳です。
本当に信心が高度な信心になればなる程、用心が必要である事になります。そこで私達がですね、今日ずっと申し上げてまいりましたような事にも、心すると同時にです、もう根本的な所がです、だから信心を油断をせんで済む為に、まあ信心との楽しみ、信心修行に楽しみがわかるような信心というような事を申しましたが。最後の五十三節どんなに眼に見えるおかげを頂いても、それによって油断してはならない。油断をしてはならない。どこにどういう深い御神意があってです、これを下さっておるのか分からんという事。そういういわば精神。いうなら眼に見えるおかげより、眼に見えないおかげの方が多いとおっしゃる。まあだまあだ、眼に見えないおかげの方が多い。そこんところのお礼心がというものがです、その眼に、見えないおかげを分からして頂かなければお礼心になっってこない。あれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようになる信心を、いよいよ身につけていきませんとです。ならんという事が分かる。
「まめなとも信心の油断をすな」と。はあ油断しさえしなけりゃ、よかばいな。毎日お参りしさえすればいいばいなと、いうような事ではない事が分かります。しかも、そんなら 言うなら油断大敵であり、勝って兜の緒を締めよであり、その勝って兜の緒を締めよという事は、いつもかつも鎧兜をつけとかにゃならんと。これは、大変難儀な事でありますけれども、そういうものではない。その事が楽しゅうなる。その事が喜ばしくなる。いわば、そうしなければおられない。そういう信心を高めていくという事なんですから。おかげを頂いたら頂いたでです。忙しければ忙しいでです。忙しければ忙しい程、お礼参りでも出来るという信心。そういう信心に、お互いがひとつならして頂かなければならん。そこから限りないおかげ。おかげを頂き続けていく事が出来る。
短い御教えですね。「まめなとも信心の油断をすな」。それを、例えば深く広くですね。頂きますと、今日のような御理解になります。けれども これは、私の言葉で申しました広さ深さであってもっともっと広いもの。もっともっと深いもの。自分自身がそれに取り組んでみると、はあ、こういうところが自分のこれが油断があった。油断であったであろう。又、油断だろうと分かります。例えて申しますと、いらいらしておりましたり、腹が立ったりした時には もう絶対油断しとる時ですよ。ですから、もう厳密に言うと、今私は、信心の油断をしておるんだと分からして頂いて私共の信心から、その油断を追放するというか、ゆうべの映画のそれじゃありませんけれども、自分は親切をして助けたから、自分が助かるという事はない、助けた人の為に、自分が命を落としておる。
お参りしよるけんこれでいいという事はないという事をですね。ひとつ分らして頂かにゃいけと思うのです。この御理解は、もっともっと広い深く各々の信心の上に頂してもらわねば ならんけれども、私も気がつかなかった。私も知らなかった。そこんところを「まめなとも信心の油断をすな」という御教をです今日はです。という御教えをです苦今日は五十三節からそのようなふうに頂きました。
どうぞ。